セレッソ大阪 #16 片山 瑛一選手
--早稲田大学ア式蹴球部(=サッカー部)という高いレベルに身を投じることで、4年間試合に出られないかもしれないという焦りはありましたか?
片山 当時のア式蹴球部はAチームからCチームまでの3チームで構成されていたのですが、1年目はCチームでも試合に出られないような状況でした。Aチームで出場しているトップの選手たちとの実力差が大きすぎたので、まずは目の前のチームで試合に出たいという気持ちでした。ですから4年間をトータルに考える余裕がなかったのだと思います。ですから焦りは、逆にありませんでした。
--目の前の課題を一つ一つクリアしていったというイメージですか?
片山 そうですね。まずはついていくことに必死だったので、余計なことを考える余裕はありませんでした。ですから練習に自然とついていけるような身体ができてからが、スタートラインに立ったという感じでした。そこで初めて色々課題に向き合えるようになっていったという感覚でした。
--そこで最初に感じた自分の課題は何でしたか?
片山 サッカーを知らなかったということでしょうか。考えてサッカーをするという部分においては、知識がゼロに近い状態だったと思います。でもそれが僕にとっては良かったのだと思います。何もなかったからこそ、素直に吸収することができました。
--それは戦術理解という意味ですか?
片山 戦術というところも含みますが、それ以前のポジションや状況に応じての動き方といった基礎的なことから全てです。高校時代は他のチームメートよりは身体能力も高かったので、自分一人で思うように動き、強引にでも仕掛けていくタイプでした。今にして思えば、何も考えずにプレーしていたということです。しかし大学に進み、チームメートのレベルも格段に上がりましたし、それに連れて対戦相手の強さも上がりました。そこで、それまでの自分のプレーでは全く通用しないということを痛感しましたし、周りとの差も感じました。でも自分の中で「知らない」ということを素直に認めることができたので、逆に言われたことを素直に吸収できました。
--高校時代まではサッカーを楽しんでいたが、楽しさに加えて難しさを知ることができたのが、片山選手にとっての大学時代ということですね?
片山 そうですね。
--大学時代を通じて、教師という夢は持ち続けていたのですか?
片山 はい。ですから通常の授業に加え、教職課程の授業を受講していました。キャンパスを移動しながら、頑張って出席していました(笑)。
--プロが現実的な夢として浮上したのは、何年生のときでしたか?
片山 大学3年生のときに、初めて意識し始めました。
--何かきっかけがあったのですか?
片山 Aチームで試合に絡めるようになったのが、大学3年生の後期頃からでした。それまで、ケガなども多少ありましたが、試合に出るようになる中で通用する部分としない部分の自己分析もできるようになりました。そこで通用する部分が思った以上にあったことで、プロという世界も意識できるようになってきたのだと思います。
--プロクラブからのアプローチを受けたのもその頃ですか?
片山 いえ。それはもう少し後です。大学3年生から4年生になる段階で、関東の大学選抜に選ばれましたので、それがプロのスカウトの方に自分のプレーを見てもらうきっかけになったのだと思います。
--そこでプロという夢が、教師という夢より大きくなっていったということですか?
片山 そうですね。大学に行くときにも「自分の限界にチャレンジしたい」という思いでしたが、さらに上の世界にチャレンジすることができるのならば、そこに身を投じてみたいという思いが強くなりました。
--プロは「挑戦し甲斐のある世界」という認識ですか?
片山 そうでしたね。
--早稲田大学のア式蹴球部に入る際、唯一の一般入試組ということは、失礼な言い方をすれば一番下からの挑戦だったと思いますが、そこでもやればできるだろうという思いがあったのですか?
片山 やればできるかどうかは分かっていませんでしたが、やれるようになっていくということが、僕の中での楽しさになっていたことは間違いありません。成長を実感できることが、そのまま励みにもなっていました。ですから他人と競争したり、蹴落としていくというのではなく、自分が成長していくということが楽しかったという感覚ですね。
--片山選手は、自分の限界を知りたいという探究心が強いのでしょうか?
片山 そういうタイプかもしれませんね。
(#4へ続く)

片山 瑛一(かたやま・えいいち)
出身:埼玉県
生年月日:1991年11月30日
身長:180cm
体重:77kg
ポジション:DF
川越西中学校(’04)
埼玉県立川越高校(’07)
早稲田大学(’10)
ファジアーノ岡山(’14)
セレッソ大阪(’18)