【畠山俊樹選手#2】「練習量には自信がありました」

大阪エヴェッサ #32 畠山 俊樹選手

大阪エヴェッサ #32 畠山 俊樹選手

 

--子どもの頃、「自分が友だちよりも巧い」と感じたことはありますか?

畠山 巧いですか?う~ん。(暫く考え込んで)僕が小学校でやっていたミニバスケットボールは、1クォーターが5分で、第3クォーターまでに10人出場させるというルールなんです。ですから1チーム10人揃わないと試合に出られないのですが、僕の所属していたチームは本当に人数が少なかったんです。バスケットボールの練習が終わると、同じ会場でドッジボールのチームが練習していたのですが、そこから選手を借りて、やっと試合に出るという状態でした。ですから僕は小学校2年生の頃から、試合に出してもらっていました。それこそ骨折したときなどは、折れた右手にギブスを嵌めて、左手一本でプレーしていたこともあるくらい、選手が少なかったんです(笑)。
でもその環境こそが、僕を成長させてくれた要因です。低学年の頃から試合に出なければいけないという状況が、負けず嫌いの部分を引き出してくれたのだと思います。

 

--早い時期からプレーは認められていたのですか?

畠山 小学校の時は、ミニバスケットボールの強化指定選手に選んでいただきました。(宮城)県内で20名ほどだったと思います。中学生のジュニア選抜チームにも、中学1年生の頃から選んでいただきました。僕としては選ばれるために何かをやったというよりは、バスケットボールが楽しくて、一生懸命にプレーしていたら選ばれていたという感覚でした。

 

--そうした実績を見れば「エリート」だと思いますが、それでも友達より優れているという感覚ではなかったのですか?

畠山 そういう感覚は、全くなかったですね。でも、誰よりも練習しているという自負は持っていました。「ここまで練習しているんだから、絶対に勝てる」という気持ちだけは持っていたと思います。

 

--練習が辛いと思った時期はありませんでしたか?

畠山 小学生の頃はなかったですね。所属していたミニバスケットボールチームの練習は週3日だったのですが、それではプレーし足りなくて、文字通り毎日練習していました。練習が辛いという感覚は、中学生になってから味わったような気がします。

 

--中学校では何が辛かったのですか?

畠山 僕の通っていた中学校(仙台市立第一中学校)では、当時、体育館が使える時間が限られていました。使えない時間は外を走ることが多かったです。中学校の隣に神社があって、そこのかなり長い階段を何往復もするのは、さすがに辛かったですね。

 

--高校時代は、どういう意識で練習に取り組んでいましたか?

畠山 高校時代はバスケットボールもそうですが、佐藤先生が人間としての成長を重んじる方でしたから、プレーよりもそちらに重きを置いていたかもしれません。バスケットボールの選手である前に、人間としての成長を遂げるため、どういう高校生活を送るべきか考えていたと思います。

 

 

--大学では関東大学リーグ戦や全日本大学バスケットボール選手権、関東大学選手権などのタイトルを獲得していますが、それは自信になりましたか?

畠山 青山学院は優秀な選手が多いため、そこでスターティングメンバーに入るためには、本当に厳しい競争を勝ち抜かなくてはなりませんでした。特に長谷川健志ヘッドコーチは、多くても8人くらいの選手で試合を回す方針でしたので、もうスタートに入ったら40分間出るのが当たり前、という感じでした。ですからその5人に入ることは、プロ入りよりも難しいと思ったこともあります。そんな中で試合に使ってもらったことには、本当に感謝していますし、長谷川ヘッドコーチのお陰で、プロへの道がつながったと思っています。

 

(#3に続く)

畠山 俊樹(はたけやま・しゅんき)

出身地:宮城県
生年月日:1991年06月18日
身長:170cm
体重:73kg
血液型:A型
出身校:明成高等学校→青山学院大学

※2009 ウインターカップ優勝 ベスト5受賞
※2010 全日本大学バスケットボール選手権大会優勝
※2011 全日本大学バスケットボール選手権大会優勝
経歴2013-15大阪エヴェッサ(bjリーグ)
※2013-14シーズンは2014年1月より、アーリーエントリーで加入
2015-16西宮ストークス(NBL)
2016-18新潟アルビレックスBB(B1)
2018- 大阪エヴェッサ(B1)

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